若造

リルケの「若き詩人への手紙」を読んでいます。
リルケが自分のファンである詩人志望の若者カプス君にあてた一連の手紙なのですが、
自然に他人を見下した感じが凄いですね。昔読んだときはなんとも思わなかったのですが
今読み返してみると、選民意識が包みかくさず書かれていて
おもしろい。

エッチは偉大で崇高な活動だという主張はよくあるものですが、



「ああ、人間が地上、その最もささやかな存在に至るまで、それに満ちみちているこの秘密を、
もっと謙虚に受取り、もっと真面目ににない堪えるならば、
そうして軽がるしくこれを考える代りに、これがどんなに恐ろしいまでに重大なことであるかを感じてくれるならば」




って、自分はいったい何様のつもりなのであろうか。



で、途中まではせいぜい「肉体的な快楽」という言葉くらいしか使っていないのですが、
だんだん疲れてきたようで、



「抵抗力のある強力な精子が、あけ放しに彼を迎え入れる卵細胞に向って
突進します」



と直接的な表現になっていくのがおもしろい。さらに性の話に続けて、



「しかしおそらく、いつか多くの人々に可能となることをすべて、孤独の人間は今すでに
準備することができ、迷うことのより少ない彼の手で築くことができます。
それだからこそ、あなたはあなたの孤独を愛して下さい」




カプス君がこの前の手紙でが何を書いたのかはわかりませんが、
彼女がいないカプス君の孤独が、とても崇高に見えてきます。
ここらへんの慰め方は、さすがリルケ、心憎いです。




「あなたに近い人々が遠く思われる、とあなたは言われますが、それこそあなたの周囲が広くなり始めたことを
示すものにほかなりません」




はさすがに詭弁のような気がしますが。



あとは、手紙を長い間出せなかった言い訳が毎回長い!
言い訳で終わっている手紙もありました。



しかしこの本ですごいのはなんといっても訳者後記で、



「ただ残念なことに、この若き詩人フランツ・クサーファ・カプスは後年、
リルケのこれほどの助言にもかかわらず、いわゆるジャーナリズムに頼って、
ベルリンの絵入週間新聞に、みじめな大衆小説を書いているのを僕はこの眼で見た。
これは悲しむべき事実である。たとえどのような生活の労苦があったにせよ、これほどの
リルケの信頼に応えるのに、この有様はなんということであろうか、僕はしばし悲憤の涙にくれ、
人間のあわれさに慟哭したのであった」



「この眼で見た」

「悲憤の涙にくれ」

「人間のあわれさに慟哭したのであった」

本当に慟哭したのでしょうか……こういう嘘の言葉、大げさな言葉を無闇に浪費する人間に、
人間一般をあわれなどと呼ぶ資格はないでしょう。少なくとも
大衆小説を書くことのほうが、翻訳よりはよほど独創的な作業のような気がするのですが。



「他人を見下す若者たち 『自分以外はバカ』の時代!」という新書が今売れているようですが、
一昔前の文学者・文学かぶれのひとたちのほうがよほど他人を見下している気がします。



■ところで上記の文庫本の後ろには西洋の文学作品の宣伝ががずらりと並んでいたのですが、
ツルゲーネフの「はつ恋」の解説はこうなっていました。


「年上の令嬢ジナイーダに生れて初めての恋をした16歳のウラジミール−深い憂愁を漂わせて語られる、
青春時代の甘美な恋の追憶」



この解説でこの本をよみたくなる人がどれだけいるのでしょうか?
以下ネタバレですが、
私の記憶が正しければ、「はつ恋」は、初恋相手の女性が実は
自分の父親とできていたという、トラウマになりそうな恋の話。


おまけにこの父親というのがなかなかのSで、ジナイーダの白い腕を鞭で打つ、すると
ジナイーダは父親の顔をちらりと見やると、真っ赤になった鞭のあとに
無言で接吻するというシーンがあり、エロ情感もある、まさに「甘美な恋」の小説です。
ウラジミールもウラジミールの若さなりにジナイーダに情熱を傾けるわけですが、
中年男の恋はさらに狂おしく、主人公は父とも言えます。
逆親子丼の要素もあいまって、二人にたいする彼女の対応の違いも含めて
なかなかにおもしろい。


ですから「はつ恋」の解説は



「16歳のウラジミールの恋敵は、実の父。
接吻−裏切り−鞭−死……
ヴァイオレンスSEXYノベル!」


と、ハリウッド映画の宣伝の風にしたほうが売れる気がするのですが……だめか……。




■いつもと違う格好をしたら
「いつもより若く見える」といろいろな人に言われましたが、
ひとりだけ「中学生みたい」と言った人が。
さすがに中学生には見えないと思いますが、そもそも褒め言葉なのでしょうか?
若く見えると言われて大喜びしたときに、いちばん年を感じますね